あのひとみん?

文章のトレーニングがてらにブログを始めてみました。

何かを語ること

何かを語るということは、何かを語らないということだと思っています。Aを語れば非Aは無視される。私の目の前にある机について語ったとすれば、その瞬間、私が今座っている椅子については語られないということです。

これは言葉に限った話ではありません。もっと広く、私が何かを表現したとき、その何か以外のものは見過ごされ、無視されます。表現はその人の価値観を反映する一面がありますから、意識的にせよ無意識的にせよ、この時私はあるものの価値を重視し、それ以外のものを軽視したのです。




より良い判断を

かなり大きな地震があったみたいですね。心配です。

 

幸か不幸か、今のところ私には地震の直接的な経験がありません。科学館のようなところで地震シミュレーターを体験したことはありますが、あれは所詮乗り物です。一応、阪神・淡路大震災を直接経験しているらしいですが、当時は物心もついていなかったので正直なところ覚えていません。震度3から4が直接体験した最大の地震である私にとって、地震の記憶といえば東日本大震災です。

 

先の震災では、メディアリテラシーも大きく問われました。どういう情報を信頼するか。多数のデマが流れました。どの程度情報を得るべきか。私は当時報道漬けになってメンタルに不調をきたしました。それからどういう情報は拡散すべきで、どういう情報は拡散すべきでないか。その情報は流すに値するのか。これらを冷静に判断していければ、と思います。より良く行動したいです。

 

 九州・熊本のかたがたの無事をお祈りします。

ものすものNたび。

春ですね。当ブログは例によって約1年間停止していました。継続的に文章を書くのは難しいです。あるいは習慣化一般が苦手なのかもしれません。こんな感じなので、やはり私にブログ更新などは土台無理な話だったのでは、と思うこともままあります。

 

しかし一方で、ある程度習慣化に成功した例もできました。それは毎日の筋トレです。私は現在週1でとある格闘技を習いに行ってるのですが、体力づくりの一環で筋トレをする必要が出てきたのですよね。先生に「はじめからきついメニューだと続かないから、無理の生じない範囲から初めて、徐々に増やしていけば良い」というアドバイスを頂いたので、

 

  • はじめは腕立て伏せ・腹筋・ジャンプスクワットを1日10回ずつ×1セットから
  • それを1週間継続できたら1セットの回数あるいは1日あたりのセット数を増やす
  • ノルマを達成できたらカレンダーに印をつける

 

という3点だけを決めて始めてみました。最初の1週間こそ何日か忘れる日もあったのですが、開始から10日ほど経つと忘れていても日をまたぐ前に気づくくらいには定着したと思います。始めてからひと月くらいで体のふらつきが少なくなるなど、徐々に効果も現れてきたみたいです。

 

 

なので、これをブログにも応用できるんじゃないでしょうか?

つまり一回の分量を極端に軽く設定すれば気軽にできるのでは、ということです。以下のような最低限のメニューを設定します。

 

  • 400字きっちりにする。
  • 1週間継続するごとに、200字ずつ増やしていく

 

なお、多すぎても少なすぎても駄目です。これは一定の分量を保つ意味もありますし、思考が際限なく広がり収拾がつかなくなったとき用の保険でもあります。「きっちり」なのは指定字数に収める練習の意味合いもありますね。天声人語が602字みたいなものです。ちなみに今回の記事は内容が多いので800字にしています。

 

こんな感じで、頑張っていけたらと思いますー。

どうにもこうにも

不定期連載()のシリーズは、ひとまず置いておき。

 

 どうも最近、文章を「書く」気が起きないというか何というか。読むのは読んでいるんですが……。Twitterすら更新できないのはかなり重症です。これはなんとかしないといけないな、と久々にこのブログを更新してみようと思いました。

 

 しかし、何を書こう? と思うとこれが何もできなくて困るのです。もともと文章を書くのはあまり得意な方ではありませんし。*1

 

 などと考えると、ふと頭に2つのことがよぎりました。

 

 1つ目。どうも私は文章を書く際に「完璧」を求めているのではないのかなあ、と思います。この文章を記しているまさにこの瞬間も、意味が通るかとか、誤解は生みがたいかとか、を考えて文章が先に進まないんですね。

 

 2つ目。あと、文章全体の構成をきっちりと考えていないから、記事全体にまとまりが見えない。今、継続している記事の方も、ぼんやりとは構想していてもどんな風に語ってやろうと考えないから筆が遅い。

 

 先のことが見通せていないわりに、細かいことを気にする。だから一歩も進めないんじゃないかなあ。

 

 もちろん、文章の細かいところに注意することも、時には大胆に行動してみることも大事だとは思います。前者を軽視すれば意味が伝わりにくくなりますし、後者を軽視すればいつまでたっても設定ばかりで先に進めません。しかし、そればかりでは、いけないんじゃないんでしょうか。

 

 なので、今より少しでもましにしたいなら、第一に多少のミスを恐れないこと、そして第二に全体的な構造を今よりも意識してみること。これが大事なのではないかと思います。この記事も特に校正しないで投稿します。

 

 

 

*1:まあ言葉全般が苦手なんですけど。そして「言葉が苦手」という事実が私を言語学に導いた理由だったりするのですがそれはまた別件。

恋愛と性交渉(3):恋愛全体の開始

前回記事よりかなり時間が過ぎました。なんか下書きがあったので、投稿しておきます。いつまで考えていても先に進みませんし。

 

 前回までの記事で、「恋愛全体」という概念と「真の/偽の恋愛*1という概念を導入しました。しかし、これらの中身が今一歩理解しがたいのでもう少し掘り下げてみることにします。今回は特に「恋愛全体」を理解してみようと思います。

 そもそも「恋愛全体」とはいったいどのように生まれるのでしょうか? まず、「偽の恋愛」(=性交渉を伴わない恋愛全体)を想定する時点で、「性交渉」が恋愛全体の発生条件の関わる、とする推論には無理があります。つまり、恋愛全体と性交渉は独立した要素だということです。恋愛全体が成立している+性交渉を伴っているという条件を達成した場合に、「真の恋愛」は成立する、と考えられます。これを踏まえて1つの説を考えてみましょう。

 

「恋愛開始の合意」説

 もっとも「常識的に」考えればこの説になると思います。つまり、恋愛当事者たちが「私たちは恋愛を開始します」という合意ができたときに、同時に恋愛全体も発生するという説です。この場合、恋愛終了時も基本的には同じと考えて良いでしょう。「恋愛を終了します」という合意ができたときに恋愛全体が終了するというわけです。この説における恋愛全体とは、つまり下図の開始-合意(K)と終了-合意(S)との間*2を意味します。また、この考え方において「真の恋愛」とは、K-S間において性交渉が成立した状態、同様に「偽の恋愛」とはK-S間で性交渉が成立しない場合ということになります。

開始-合意(K)       終了-合意(S)

「全体」開始→性交渉の有無→「全体」終了

 

※恋愛全体……KとSの間
 真の恋愛……性交渉が成立
 偽の恋愛……性交渉が不成立

 

 しかし注意してほしいのは、ここで言う「合意」とは必ずしも文字通りの合意(=以下「合意」様行為)を意味しないということです。そのような「合意」様行為をしたところで当事者に恋愛をしている意識がなければそれは恋愛だと言い難そうであるし、また「合意」様行為がなくとも恋愛関係になることは容易に想定できるからです。ですので、実際のところ必要なのは当事者が現在恋愛しているという認識だろうと考えられます。この認識を恋愛認識とでも呼んでおきましょう。「合意」様行為は恋愛認識を引き出すためのトリガーに過ぎないというわけです。なお下図において「合意」様行為(X)と恋愛認識(X)との間の順序は特にもうけていません。同時もあり得るでしょうし、どちらか一方がもう一方に先行する事もあり得るからです。もちろん、「合意」様行為を伴わないケースも考えられるでしょう。そういう可能性を考慮した形式となっています。

「合意」様行為(K)         「合意」様行為(S)
 恋愛認識(K) → 性交渉の有無 → 恋愛認識(S)

 

※恋愛全体……KとSの間
 真の恋愛……恋愛全体において性交渉が成立
 偽の恋愛……恋愛全体において性交渉が不成立

 

 以上を総合すると、恋愛全体成立のためにはまず「恋愛認識」が必要なことがわかりました。また「真の恋愛」が成立するためには、恋愛認識と性交渉両方の成立が不可欠だと考えられます。これは言い換えれば、性交渉の両方を持たない恋愛は「真の恋愛」ではない、つまり「偽の恋愛」だということです。これは恋愛意識をもたない恋愛は、ここでは論理的に存在し得ないためです。なおこの点についても深く考える必要があるでしょう。というのも、当事者たちには恋愛認識はないのですが、第三者からみると恋愛関係があるかのように見える場合もまた想定できるからです。

 しかしここで気になることがあります。ここまではその主張をとりあえず受け入れてきたのですが、いったいどうして「性交渉」を経ると「真の恋愛」になるのでしょうか

*1:前回は「偽物の恋愛」という語を採用しましたが、今回以降「偽の恋愛」に統一したいと思います。

*2:Kは開始Kaishi、Sは終了Shuryouを意味します。本稿ではこの表記を今後断りなく入れますのでご了承ください。

恋愛と性交渉(2):「真」と「全体」

 前回、「恋愛と性交渉を結び付ける」という議論の中で、「恋愛」が「性交渉」と不可分であるとするならば、「性交渉」以外の「恋愛」は成立しえないはずだという予想に対し、このような反論を想定しました。

(「恋愛」と「性交渉」が不可分だというのは)「恋愛」をしていればその過程で「性交渉」は必ず経るはずであって、これを経ていない「恋愛」は「真の恋愛」ではない、ということだ。したがって問題なのは"「性交渉」をしている瞬間"ではなくて、"「全体の枠としての恋愛」の中に「性交渉」が含まれている/いない"ことである。※強調ママ

  今回は、これについて考えてみます。

 まずは「真の恋愛」という考え方について。「真の」という言葉は「偽の」が想定されているときにのみ使えるはずのものです。ですので、これはおそらく対となる「偽物の恋愛」が想定されているのではないかと考えられます。そして「偽物の恋愛」は「恋愛」たり得ず、あるいは「恋愛」としては不十分なものであり、他方「真の恋愛」こそが唯一の「恋愛」であると、このように想定しているのではないでしょうか。

 そうすると「恋愛」と「性交渉」が不可分だとする立場の、上の反論から導ける主張は、「性交渉」が、「偽物の恋愛」を「真の恋愛」たらしめる唯一の、少なくとも必須の、条件だと考えているということです*1。これは上の「これを経ていない『恋愛』は『真の恋愛』ではない」において、「これ」が「性交渉」であることは明らかであり、また「真」でないものは「偽」であることであることから導くことができます*2。時間的順序を簡単に示すと次のようになります。

「偽物の恋愛」「性交渉」「真の恋愛」

 ではこの「偽物の恋愛」というのは一体何なのでしょうか。これを考えていく上で次の「全体の枠としての恋愛」(以下これを「恋愛全体」とします)が必要になってくるように思います。

 「恋愛全体」は、「全体の枠」という文言からすると、ある恋愛が始まった時に同時に開始し、これが終わると同時に終了するものだと考えられます。このとき、この恋愛が「真」であるか「偽」であるかは関係ありません。というのも、もしこのとき「真の恋愛」しか「恋愛全体」に含まれないのだとすれば、上の時間順序の想定から考えると「偽物の恋愛」が「恋愛全体」から、論理的に存在しえないことになるからです。これは"「全体の枠としての恋愛」の中に「性交渉」が含まれている/いない"という想定からも裏付けられます。「全体」を含めて示すと、このような感じでしょうか。

「恋愛全体」開始(「偽物の恋愛」も同時に開始)

 「性交渉」「真の恋愛」

  「恋愛全体」終了(真の恋愛も同時に終了)

 これで「反論」の概要をつかむことができました。既にこの想定について、何か奇妙に感じている方もいらっしゃるかと思いますが、また次回に引き継ぎます。それでは。

 

*1:ここで「少なくとも必須」としているのは、「条件」が「唯一」でない可能性を考慮してのものです。

*2:真でも偽でもない他の真理値もあるかもしれませんが、ここでは想定していません

恋愛と性交渉を結び付ける、ということ。

 恋愛を性交渉と結び付ける人がいます。この場合「結び付ける」とは、それらが不可分だと考えることです。つまり「恋愛と性交渉とを結び付ける」とは、「恋愛」と「性交渉」が不可分だと考えることを言います

 もし「結び付ける」「不可分である」ということが直観的に分かりづらいのであれば、以下のように言い換えてみるとわかりやすいかもしれません。「彼女がいいるのに未だに童貞だなんておかしい」、「付き合っている人いるんだー。じゃあもうセックスしまくりなんだな」あるいは「え、君はゲイなの? 襲わないでね」*1。いずれも、「恋愛」行為をしているならば、必ず「性交渉」を経験しているに違いないという、そのような推論が働いているのではないでしょうか。

 しかしこの両者は、論理的にも経験的にも分離可能です。少し極端な話になりますが、もし「恋愛」が「性交渉」と不可分であるとするならば、「性交渉」以外の「恋愛」は成立しえません。なにをばかな、と思う方もいるかもしれませんが論理的にはそうです。「恋愛」が「性交渉」と不可分であるならば、「『性交渉』を伴わない『恋愛』」は『恋愛』ではありません。それに不可分なら、そもそもこの二者を分ける必要がありません。しかし、この推論には違和感を感じるのではないでしょうか。「分ける必要がない」というなら、どうしてわざわざ二つの言葉があるのでしょうか?

 経験的にも考えられます。たとえば、お互いには性交渉をしたことのない2名が「付き合う」ことになったとします。「恋愛」が「性交渉」と不可分であるという主張に基づけば、言うまでもなく、この時点では「恋愛」は成立していません*2。ある日、この2人はデートをすることになりました。しかし、これも「恋愛」ではありません。「性交渉」をしていないからです。2人が「恋愛」していると認められるのは、それから経験するかもしれない実際の「性交渉」をしている場面、しかもその瞬間に限られます。

 こう言うと、このような反論が考えられるかもしれません。「性交渉」の瞬間のみが「恋愛」だというのは極端だ。私が言いたいのはそういうことではなく、「恋愛」をしていればその過程で「性交渉」は必ず経るはずであって、これを経ていない「恋愛」は「真の恋愛」ではない、ということだ。したがって問題なのは"「性交渉」をしている瞬間"ではなくて、"「全体の枠としての恋愛」の中に「性交渉」が含まれている/いない"ことである。「不可分」というのはそのような意味だ。

 なるほど一見筋が通っているようにも見えます。しかしこの主張は「真の恋愛」「全体の枠としての恋愛」という新たな概念を持ち出しています。これは一体どういったものなのでしょうか。

 長くなりそうなので、今回はここで終了させて頂きます。それでは。

 

 

*1:そしてこれらの言説は、しばしばそれが向けられる相手にとって非常に失礼なものです

*2:ただし「普通」想定される考え方では、という留保の下で、です。「付き合う」ことが決まった時点で性交渉をしているのであれば、もちろんこの瞬間は「恋愛」していることになります